天正10年(1582年)6月2日、日本史を揺るがす大事件「本能寺の変」が勃発。絶対的な独裁者であった織田信長が49歳でこの世を去りました。
主君の死は、それまで信長がガチガチに固定していた織田家臣団の序列ピラミッドを、わずか数日で完全にぶち壊しました。昨日まで「家柄や格式」によって守られていた重臣たちの格付けはリセットされ、「変の直後にどれだけの成果を挙げたか」という、本当の意味での剥き出しの実力至上主義へと突入したのです。
今回は、本能寺の変の「直後」からわずか1年の間に起きた、織田五大将たちのドラマチックすぎる序列の激変劇「下剋上」を徹底解説します!
本能寺の変「後」の五大将・驚異の格付けチェンジ
まずは、本能寺の変が起きたあとの、五大将たちの命運と序列の変化を一覧表で見てみましょう。わずか1年足らずの間に、信長時代のランキングが完全にひっくり返っていることが分かります。
| 将星名 | 変「直前」の序列 | 変「直後」(清洲会議〜賤ヶ岳の戦い)の状況と序列の変化 |
| 羽柴秀吉 | 3位 | 【 3位 ───→ 圧倒的1位(天下人へ) 】
「中国大返し」で明智光秀を山崎の戦いで討伐。清洲会議の主導権を握り、翌年の「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を破って織田家を事実上吸収。 |
| 丹羽長秀 | 2位 | 【 2位 ───→ 実質2位(秀吉政権の筆頭大名へ) 】
変の直後に軍が混乱するも、秀吉と合流して光秀を討つ。清洲会議でも終始秀吉を支持したため、その功績で123万石の大名へと大出世。 |
| 柴田勝家 | 1位 | 【 1位 ───→ 失脚・滅亡 】
北陸で上杉景勝の足止めを食らい、光秀討伐に遅れる致命的な失態。清洲会議で秀吉に対抗するも押し切られ、1583年の賤ヶ岳の戦いで敗れて自害。 |
| 滝川一益 | 5位 | 【 5位 ───→ 失脚・没落 】
関東で北条氏の大軍に大敗(神流川の戦い)し、領地を失って敗走。清洲会議に間に合わず序列から脱落。のちに秀吉に抵抗するも敗れ出家。 |
| 明智光秀 | 4位 | 【 4位 ───→ 滅亡(三日天下) 】
クーデターに成功するも、味方と信じた細川氏らに拒絶され、山崎の戦いで秀吉に敗北。敗走中に農民の落ち武者狩りに遭って死亡。 |
破滅へのカウントダウン:光秀の誤算と、遅れた勝家・一益
信長が倒れた瞬間、五大将の明暗を分けたのは「初動のスピード」と「運」でした。
4位・明智光秀の「誤算」と三日天下
クーデターを成功させた光秀(55歳)でしたが、最大の誤算は「味方が誰も来なかったこと」でした。自身の部下(与力)であり、親戚関係でもあった細川藤孝・忠興親子は光秀の誘いを拒否して喪に服し、大和の筒井順慶も静観を決め込みました。近畿方面軍という巨大な指揮権を持っていながら、味方の裏切りにより、光秀はわずか11日後に滅ぼされることになります。
1位・柴田勝家と5位・滝川一益の「致命的な遅れ」
当時、格式トップだった柴田勝家(61歳)は、北陸で上杉景勝と激戦の最中であり、凶報を受けてもすぐに動けませんでした。
また、5位の滝川一益(58歳)にいたっては、信長の死によって動揺した関東の国衆や、数倍の兵力で襲いかかってきた北条氏の大軍との戦い(神流川の戦い)に巻き込まれ、命からがら伊勢へ逃げ帰るのが精一杯でした。
この「お偉い先輩たち」が身動きを取れずに足踏みしている瞬間、織田家の歴史上、最も恐るべき「成果」を挙げた男がいました。それこそが、3位の羽柴秀吉です。
最若手・秀吉の神速「中国大返し」と清洲会議の逆転劇
46歳の秀吉が魅せた「驚異のスピード」
中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉(46歳)は、信長崩御の知らせを受けるやいなや、毛利側に信長の死を隠して一瞬で和睦を成立させます。そして、全軍を率いてわずか数日で京都まで引き返すという奇跡の強行軍「中国大返し」を敢行しました。
秀吉は、四国征伐軍の崩壊で立ち往生していた2位の丹羽長秀(48歳)を自軍に吸収し、そのまま明智光秀を「山崎の戦い」で撃破。主君の仇を討つという、織田家において「これ以上ない最大の成果」を叩き出したのです。
【本能寺の変から清洲会議までの超高速展開】
6月2日:本能寺の変 勃発
6月6日:秀吉、毛利と和睦して「中国大返し」スタート
6月13日:山崎の戦い(秀吉、光秀を破る)
6月27日:清洲会議(織田家の新しい序列が決定)
清洲会議で完成した「秀吉一強」の新秩序
変のわずか25日後、織田家の後継者と遺領の分配を決めるために開かれた「清洲会議」。この席上での序列は、信長時代とは完全に様変わりしていました。
光秀討伐の大恩人となった秀吉が会議の主導権(イニシアチブ)を握り、信長の嫡孫であるわずか3歳の三法師(秀信)を後継者に据えます。格式2位の丹羽長秀は終始秀吉を支持し、滝川一益の欠席によって空いた席には、秀吉の味方をして光秀を討った池田恒興(信長の乳兄弟)が滑り込みました。
格式1位だった柴田勝家は、信長の三男・織田信孝を推したものの、秀吉の圧倒的な実績と政治力の前に完全に押し切られ、「名目上はトップだが、実権は秀吉に奪われた」という、屈辱的な格下げを味わうことになったのです。
清洲会議の出席者
柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興
清洲会議は、柴田勝家 VS 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の構図で進みます。
本能寺の変前、柴田勝家は序列1位、対する羽柴秀吉は序列3位
しかし光秀を討った実績と序列2位の丹羽長秀、信長の乳兄弟の池田恒興の支持を得て、会議を有利に進めます。
光秀を討った実績だけに留まらす、勝家に対抗するために、丹羽長秀、池田恒興をも味方につけておくあたり、清洲会議は秀吉の根回し、政治力の勝利と言えるでしょう。
結論:信長の成果主義を、秀吉が完璧に証明してみせた
清洲会議の翌年、天正11年(1583年)、秀吉への不満を爆発させた柴田勝家は、滝川一益らと結んで秀吉に戦いを挑みます(賤ヶ岳の戦い)。しかし、すでに織田家の実権と、丹羽長秀ら有力家臣の支持を完全に握っていた秀吉の敵ではありませんでした。勝家は敗れ、北ノ庄城で自害。一益も領地を没収されて失脚しました。
こうして、信長が生きていた時代の「柴田・丹羽」という強固な格式の壁は完全に崩壊し、「羽柴秀吉が圧倒的トップ、それを丹羽長秀が支え、織田家はその配下の一大名に転落する」という、新たな豊臣政権の序列が完成したのです。
第1部で解説した通り、信長は佐久間信盛を追放することで「過去の格式ではなく、今現在の成果を出せ」という恐怖の成果主義を植え付けました。本能寺の変のあと、その教えを最も過激に、そして最も完璧に証明して天下を奪ってみせたのが、皮肉にも最若手の羽柴秀吉だったのです。
信長の成果主義が織田家を急成長、急拡大させ、そして没落・衰退につながります。成果主義と下剋上は、どこか通じるものがあるのかもしれません。
成果主義は響きもカッコ良く、うまく作用すれば本人のやる気を引き出し、組織を活性化させます。評価基準が明確でだれもが理解、納得できるのか?そこが成果主義と下剋上(無法)の違いかもしれません。
次回予告
織田家の身内たちが、清洲会議や賤ヶ岳の戦いで凄惨な足引っ張り合い(内紛)を繰り広げていたこの1年間。
実は、織田家臣団の内紛の外側で、この状況を「最高のチャンス」としてとらえ、冷徹に大大名へと脱皮を遂げた男がいました。それこそが、信長の同盟者・徳川家康です。
次回、最終回となる第4部では、五大将が揉めている隙に家康が敢行した、知られざる「最凶の戦略」を徹底解説します!
➔ 【第4部】身内が揉めてる隙に!徳川家康が敢行した「最凶の戦略」へ続く

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