天正10年(1582年)の本能寺の変の後、織田家の最高幹部「五大将」の序列は激変しました。羽柴秀吉が明智光秀を討ち、柴田勝家や滝川一益らを蹴落として、織田家の新たな支配者へと急速に駆け上がっていったのは、第3部で解説した通りです。
しかし、この時、織田家の身内たちが近畿地方で「清洲会議」や「賤ヶ岳の戦い」といった泥沼の内紛に没頭している隙を突いて、誰よりも効率的に、そして誰よりも恐ろしい目で見つめて、領土を爆発的に広げた男がいました。
それこそが、のちの江戸幕府を開くリアリスト(現実主義者)、徳川家康です。
本能寺の変の当日、命の危機に瀕していた家康が、なぜわずか数ヶ月の間に「秀吉の最大のライバル」として君臨できたのか?今回は、五大将の序列争いの裏で家康が敢行した、知られざる「最凶の戦略」の全貌を明かします!
九死に一生からの大逆転:家康の「神君伊賀越え」
本能寺の変が起きた1582年6月2日、徳川家康(41歳)は織田家の家臣ではなく「対等な同盟者」として、信長の招待で近畿を観光中(堺に滞在)でした。
わずか数人の供しか連れていない状態で信長崩御の凶報を受けた家康は、明智光秀の軍や、落ち武者狩りの暴徒に包囲されるという、人生最大のピンチを迎えます。この時、険しい山道を突破して命からがら本拠地の三河(愛知県)へ逃げ帰った決死の脱出劇が、歴史上有名な「神君伊賀越え(しんくんいがいごえ)」です。
命からがら逃げ帰った家康は、すぐさま光秀を討つために軍奉行を整えますが、三河を出陣した時には、すでに秀吉が光秀を討ち取ったあと(山崎の戦いの決着後)でした。
ここで、普通の武将なら「秀吉に先を越されたか、では織田家の次の主導権争い(清洲会議)に首を突っ込もう」と考えがちです。そもそも、何か事が起こったり、気になる事案が生じると、人は何かしようと行動を起こします。何もしないより、行動したり首を突っ込む方が気が紛れるからです。
しかし、家康の恐るべきところは、「織田家の内紛には一切関わらない。その代わり、いま誰も見ていない東国の領土を丸ごと奪う」と瞬時にターゲットを切り替えた点にありました。
滝川一益の失脚がもたらした「巨大な空白地帯」
家康が目をつけたのは、五大将の5位であり、関東方面軍司令官だった滝川一益の失脚でした。
信長が倒れたことで動揺した関東の国衆(国人豪族)や、数倍の兵力で襲いかかってきた北条氏の大軍に大敗した一益は、命からがら伊勢へ敗走。これにより、武田氏の旧領であった甲斐(山梨県)や信濃(長野県)から織田の勢力が一瞬で消え去り、主人のいない「巨大な空白地帯」が誕生したのです。
【本能寺の変の裏で起きた東国のパワーバランス】
織田信長・信忠 親子が死亡
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関東方面軍・滝川一益が大敗して敗走(甲斐・信濃が空白地に)
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徳川家康、北条氏、上杉氏による「支配権の争奪戦」がスタート!
秀吉や勝家が近畿で「三法師様を後継者に」「いや信孝様だ」と不毛な会議(清洲会議)をしているまさにその瞬間、家康は軍勢を率いてこの空白地帯へ電撃的に乱入しました。
北条氏や上杉氏といった強豪大名を相手に、時に激しく戦い(天正壬午の乱)、時に真田昌幸らの国衆を巧みな外交で味方に引き入れながら、家康は甲斐と信濃のほとんどを自分の支配下に置くことに成功します。
結果として、家康は本能寺の変の内紛に紛れて、もともとの領地(三河・遠江・駿河)に加え、甲斐・信濃を手に入れ、一瞬にして「5カ国を領有する東国の大巨人(約100万石以上)」へと爆発的な大出世を遂げたのです。
本能寺の変を足がかりに、秀吉が勢力を拡大したことが広く知られています。しかし、家康も本能寺の変をチャンスに変えた一人としてクローズアップされることは少ないように思います。
勝家からのラブコールを「冷徹にスルー」した家康の先見の明
清洲会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が決定決定的になると、格式1位の柴田勝家は家康に対して、
「秀吉は織田家を乗っ取ろうとする不届き者だ。私と一緒に秀吉を挟み撃ちにしよう」
という熱烈な同盟の誘い(ラブコール)を何度も送ってきました。
もし家康が「信長様への義理」や「格式の高さ」を重んじる古いタイプの武将であれば、筆頭家老である勝家に味方していたかもしれません。しかし、家康は冷徹なリアリストでした。
勝家のいる北陸は冬になると雪で閉ざされ、軍事行動が制限されること
スピードと経済力、そして調略の手腕において、秀吉が勝家を圧倒していること
これらを見抜いた家康は、勝家からの誘いにはのらず、中立を維持しました。
結局、勝家は孤立無援のまま「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に惨敗し、滅亡することになります。家康は、滅びゆく旧時代の重臣(勝家)と心中することを避け、無傷のまま体力を温存したのです。
なお、家康は勝家の誘いにはのりませんでしたが、後に次男・信雄(のぶかつ)を援けて秀吉と戦います。
総括:織田家序列レースの最終的な勝者は誰だったのか?
佐久間信盛の追放(第1部)から始まった、織田家臣団の壮絶な出世・生存競争。本能寺の変という大激震(第2部・第3部)を経て、家臣たちの序列は以下のように最終決着を迎えました。
【本能寺の変のあと、最終的に残った勝者たち】
圧倒的トップ:羽柴秀吉(織田家を吸収し、天下人へ)
秀吉の同盟者:徳川家康(五大将の内紛の隙に、無傷で5カ国の大名へ大躍進)
秀吉の協力者:丹羽長秀(秀吉政権の筆頭格として123万石へ大出世)
敗者(滅亡・失脚):明智光秀、柴田勝家、滝川一益
秀吉は、信長が作った「成果主義」の序列を最も過激に駆け上がり、織田家そのものを飲み込んで天下人となりました。
しかし、その秀吉が近畿を平定するために全エネルギーを注いでいる隙に、「一切の無駄な戦いをせず、最もコスパ良く、最も広い領地をかすめ取った」のが徳川家康だったのです。
本能寺の変のわずか2年後(1584年)、織田家を完全に支配下に置いた秀吉と、無傷のまま巨大化した家康は、ついに「小牧・長久手の戦い」で直接対決を迎えることになります。信長が作った恐怖の実力主義組織の崩壊は、のちの「豊臣秀吉」と「徳川家康」という、二大巨頭による天下の覇権レースの幕開けそのものだったのです。

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