【第2部】本能寺の変直前!「五大将」のリアルな序列ランキング(年齢・石高徹底比較)

天正8年(1580年)に筆頭家老・佐久間信盛が追放されたことで、織田家は完全に「成果を出さねば即クビ」の超実力主義へとシフトしました。

それから2年後の天正10年(1582年)。天下統一まであと一歩に迫った織田信長の足元には、国家並みの軍事力と経済力を与えられた5人の最高幹部が、各地の前線を率いていました。

彼らこそが、のちに「織田五大将」、あるいは「五大方面軍司令官」と呼ばれる面々です。

「もし信長が生きていたら、誰が次の天下人(後継者)に近かったのか?」

「羽柴秀吉と明智光秀は、ぶっちゃけどっちが出世していたの?」

今回は、本能寺の変が起きる「直前」という、織田家臣団の絶頂期における5人の序列(格付け)を、当時の推定石高、指揮権の大きさ、そして彼らの「年齢」という意外なデータから徹底比較します!

本能寺の変直前:五大将の年齢・石高「格付け一覧表」

まずは、本能寺の変(1582年6月)が起きた当時の、信長と五大将のリアルなステータスを一覧表で確認してみましょう。当時は太閤検地前のため、正確な石高は不明ですが、のちの基準や動員兵力から換算した推定値です(年齢は数え年)。

織田信長(49歳)

序列 将星名(担当方面) 変当時の年齢 信長との年齢差 推定支配石高 指揮下の主な与力(部下)
1位 柴田勝家

 

(北陸方面軍)

61歳 12歳年上 約60万〜75万石 前田利家、佐々成政、金森長近など
2位 丹羽長秀

 

(四国征伐軍副将)

48歳 1歳年下 約15万〜20万石

 

(潜在的拡大あり)

蜂屋頼隆、織田信孝(名目上の総大将)
3位 羽柴秀吉

 

(中国方面軍)

46歳 3歳年下 約70万〜80万石 黒田官兵衛、宇喜多秀家(大名)など
4位 明智光秀

 

(近畿方面軍)

55歳

 

(諸説あり)

6歳年上 約35万〜50万石 細川藤孝、筒井順慶、高山右近など
5位 滝川一益

 

(関東方面軍)

58歳 9歳年上 約40万〜50万石 真田昌幸、関東の国衆たち

 

このデータを詳細に見ると、信長が作ったエリート集団の「歪み」と「本当の序列」が見えてきます。

【格式・伝統の壁】絶対的なツートップ「勝家・長秀」

前回の記事で解説した通り、佐久間信盛が去ったあとの織田家において、「柴田勝家」と「丹羽長秀」のツートップの格式は絶対的なものでした。どれほど若手が軍功を挙げようとも、この二人の序列がひっくり返ることはありませんでした。

1位:柴田勝家(61歳)〜最年長にして不動の筆頭家老〜

名実ともに織田家のナンバーワン。信長より12歳も年上の大ベテランです。自身の領地である越前(福井)に加え、加賀・能登・越中(石川・富山)の軍勢を統括する北陸方面軍を率いていました。

特筆すべき点は、信長直属の精鋭(赤母衣衆など)出身である前田利家や佐々成政らが、北陸においては「勝家の部下」として配置されていた点です。信長からの信頼、家臣団からの人望ともに最高位でした。

2位:丹羽長秀(48歳)〜信長と同世代の最高実務官〜

勝家と並び「織田の双璧」と称されたのが丹羽長秀です。信長とは1歳違いで、少年時代から信長を支え続けた理解者でした。安土城の建築総責任者を務めるなど内政のスペシャリストであり、人柄も誠実で「米五郎左(米のように、組織に欠かせない男)」と称されました。

変直前の石高は少なめですが、これは近畿の遊撃(サポート)や内政が中心だったためです。変の直前には、信長の三男・神戸信孝を総大将とする「四国征伐軍」の実質的な最高指揮官を任されており、四国平定後は莫大な領地が与えられる予定の「格上の2位」でした。

【猛烈な追い上げ】実力派ライバル「秀吉 vs 光秀」

この伝統的なツートップの背中を、凄まじいスピードで追いかけていたのが、中途採用のエリートである明智光秀と、農民から這い上がった羽柴秀吉です。

3位:羽柴秀吉(46歳)〜最若手・実績トップの急上昇株〜

五大将の中で最も若い46歳。当時は中国地方の覇者・毛利氏と対峙し、備中高松城を「水攻め」で追い詰めていました。

秀吉の凄さはその圧倒的な経済力と支配地域です。播磨・但馬・因幡を直轄し、大名である宇喜多氏まで従えていたため、支配石高は家臣団トップの70万〜80万石、動員兵力は3万人に達していました。実績ベースではすでに丹羽長秀を抜き、柴田勝家に並ぶレベルでしたが、身分の低さとキャリアの浅さ(格式)により、公式な序列は「3位」でした。

4位:明智光秀(55歳)〜恐怖と戦う年長のエリート司令官〜

高度な教養と外交手腕を武器に頭角を現した明智光秀は、信長より6歳年上の55歳(※年齢は諸説あります)。

近畿方面軍司令官として丹波・山城を治め、京都の治安維持や朝廷との折衝という「織田政権の外交窓口」を一手に担っていました。また、近畿の有力大名である細川藤孝や筒井順慶を部下(与力)として動かせる非常に強い権限を持っていました。

キャリアや領地の広さで一歩リードしていた秀吉に次ぐ「4位」ですが、能力的には秀吉と完全に互角のライバルでした。本能寺の変が起こらなければ、秀吉を抜いていた可能性もあります。

【期待の新星】晩年に大抜擢された「滝川一益」

5位:滝川一益(58歳)〜新設された東国の最高司令官〜

五大将の末席(5位)は、信長より9歳年上の滝川一益です。一益は織田家の鉄砲運用の責任者や伊勢攻略などで早くから活躍していましたが、変のわずか3ヶ月前(1582年3月)に武田氏が滅亡した際、上野国(群馬)と信濃(長野)の一部を与えられ、関東一円の外交・統括を任される「関東方面軍司令官」に大抜擢されました。

ポスト佐久間信盛時代において、信長がこれからの東国攻略のキーマンとして選んだ新星でしたが、方面軍としての歴史が最も浅いため、5位という格付けになります。

秀吉の名字に隠された、絶対的な「序列の証明」

この5人の序列が、織田家の中でいかに強固なルールとして機能していたかを示す、非常に有名なエピソードがあります。それが、羽柴秀吉の「名字」です。

秀吉はもともと「木下藤吉郎」と名乗っていましたが、出世の過程で「羽柴」に改名しました。この「羽柴」という漢字は、織田家の二大巨頭であった、

羽 = 丹羽長秀

柴 = 柴田勝家

から、それぞれ一文字ずつを拝借して作ったものです。

当時、破竹の勢いでのし上がっていた秀吉(当時最若手)ですが、織田家の中で生き残るためには、大先輩である勝家・長秀のツートップの格式に敬意を払い、その序列を絶対に崩してはならないことを誰よりも理解していたのです。

【織田家臣団の序列(本能寺の変の直前)】

格式: 柴田勝家(1位) > 丹羽長秀(2位)

実力: 羽柴秀吉(3位) ≒ 明智光秀(4位) > 滝川一益(5位)

まとめ:高齢化する家臣団と、光秀の「焦り」

本能寺の変直前の五大将の年齢を見ると、秀吉(46歳)と長秀(48歳)を除く3人が、すでに50代後半〜60代という「当時の高齢者」に差し掛かっていたことが分かります。信長自身は49歳という働き盛りの絶頂期でしたが、前線を支える大将たちは世代交代の時期を迎えていたのです。

特に4位の明智光秀(55歳)にとって、第1部で解説した「佐久間信盛(当時50代)の追放」は、恐怖以外の何物でもありませんでした。

「50代半ばを過ぎた自分も、もし次に結果を出せなければ、信盛殿のようにすべてを失うのではないか……」

年下である3位の秀吉(46歳)が中国地方で大戦果を挙げる中、光秀の心の中に生じた「年齢的な焦り」と「恐怖」こそが、織田家の完璧な序列を崩壊させる引き金となっていくのです。
成果主義が織田家を急成長、急拡大させた結果、織田家の衰退の原因につながっていくことは皮肉です。

次回予告

1582年6月2日、明智光秀の謀反により、織田信長が本能寺に散る――。

絶対的な主君を失った瞬間、これまで格式高く守られていた「五大将の序列」は一瞬にして崩壊し、剥き出しの生存競争へと突入します。

次回、第3部では、本能寺の変の「直後」に起きた重臣たちの劇的な格付けチェック、そして最若手・秀吉による大逆転劇の舞台裏を徹底解説します!

【第3部】序列の崩壊!本能寺の変のあとに起きた重臣たちの「下剋上」へ続く

コメント

タイトルとURLをコピーしました