「織田信長といえばマント姿ですが、着用した『本物』は現存する?実は信長が上杉謙信に高級南蛮マントを贈った決定的な史実が存在!
この記事では、信長のマント実在の証拠や理由、本能寺の変による謎、今も見られるゆかりの現存遺品まで徹底解説します!」
はじめに:誰もが知る「織田信長のマント姿」その真実とは?
映画や大河ドラマ、あるいはアニメやゲーム。メディアに登場する織田信長は、「南蛮胴(西洋甲冑)に、鮮やかな赤や黒のマントをなびかせた姿」で描かれることがおおいですね。
戦国時代の破壊的カリスマである信長にこれ以上なくマッチしているビジュアルですが、歴史好きやネット上の検索ユーザーの間では、常に次のような疑問が飛び交っています。
「そもそも、信長が着たマントの『本物』って現存しているの?」
「あのマント姿は後世の創作? それとも本当に着ていたの?」
「なぜ信長はマントを羽織る必要があったの?」
結論から言うと、信長自身が着用した「完全な形のマント(外套)」そのものは、残念ながら現代に現存していません。しかし、信長がマントを所有し、それを愛用していたという「本物の証拠」は、あの上杉謙信への贈り物を含め、確固たる歴史的事実として現代に伝わっています!
史実検証:信長は「本物のマント」を持っていた!謙信への貢ぎ物という決定的証拠
まず気になるのが、信長が本当にマントを所有していたのかという「史実」の部分です。これについては、「間違いなく本物を持っていた、なぜなら上杉謙信にプレゼントしているから」と断言できます。
ポルトガル語の「カパ(Capa)」がマントの正体
戦国時代、日本にはポルトガルやスペインの宣教師・商人によって西洋の文物がもたらされました(南蛮文化)。
そのなかに、ポルトガル語で「カパ(Capa)」と呼ばれる、防寒・防雨用の丈の長い外套(がいとう)がありました。これこそが、現代でいうマントの正体です。日本に入ってきたカパは、のちに「合羽(かっぱ)」と当て字され、武将たちの間で超高級ファッションとして流行しました。
上杉謙信に贈られた「赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套(マント)」
天正2年(1574年)、織田信長は当時緊迫した関係にあった上杉謙信に対して、同盟を維持するための豪華な贈り物を送りました。その目録の中に、有名な狩野永徳筆の「洛中洛外図屏風」と並んで、なんと「南蛮製のマント(赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套)」(あかじぼたんからくさもんびろどまんと)が含まれていたのです。
羅紗(ラシャ): 最高級の厚手ウール生地
天鵞絨(ビロード): 独特の光沢を持つベルベット生地
当時の日本には存在しなかった、鮮烈な赤や黄(金?)に染め上げられたこの南蛮マントは、あのストイックな謙信をも大いに喜ばせたと伝えられています。
「信長が上杉謙信にマントを送った」。これこそが、信長マント実在説の何よりの証明なのです。
なぜ現存しない?信長着用の「本物マント」が消えた理由
これだけ確実な記録があるにもかかわらず、なぜ信長自身が着たマントの「本物」は現代に残っていないのでしょうか? そこには戦国時代ならではの悲劇が関係しています。
理由①:本能寺の変による焼失?
考えられる理由のひとつは、天正10年(1582年)の「本能寺の変」です。
明智光秀の謀反により、信長は本能寺の猛火の中で自刃しました。この際、信長が京都に持ち込んでいた数々の名刀、茶器などの多くが建物とともに灰になってしまいました。信長が最も愛用していた衣類としてのマントも、この中に含まれ、この時に失われた可能性はあります。
理由②:布製品としての寿命
刀剣や甲冑(鎧兜)は、家の象徴として代々伝世しやすい傾向にあります。しかし、布製品である衣服は、虫食いや湿気に弱く、時の経過とともに劣化していきます。
また、当時は貴重な南蛮の布地をそのまま残すのではなく、切り分けて別の衣服に仕立て直す(リメイク)こともあったようです。
マントのDNAを継ぐ現存品
信長自身のマントそのものは見つかっていませんが、マントは形を変えて、後世へと受け継がれています。
後世の武将たちは、マントの生地としてつかわれていた羅紗(ラシャ)天鵞絨(ビロード)を素材として甲冑の上に羽織るスタイリッシュな陣羽織へと仕立てています。
赤天鵞絨地陣羽織 丸十字紋付(あかビロードじんばおり)
東京国立博物館所蔵
波濤文羅紗陣羽織(はとうもんらしゃじんばおり)
龍刺繍文羅紗陣羽織(りゅうししゅうもんらしゃじんばおり)
佐賀県・武雄市歴史資料館所蔵
江戸時代に作られた陣羽織は、戦国時代のマントの子孫と言えるでしょう。
他の戦国武将の「現存マント」から信長の姿を想像する
信長本人のマントは残っていませんが、信長の影響を強く受けた同時代の武将たちの間では、「本物の南蛮マント」が今も奇跡的に現存しています。
| 所用した武将 | 現存する遺品名 | 所蔵・鑑賞できる場所 | 特徴 |
| 豊臣秀吉 | 鳥獣文様綴織陣羽織
(重要文化財) |
京都国立博物館 | 信長の後継者・秀吉が着用した、真っ赤なラシャ生地のマント(外套)。ヨーロッパ製のボタンや刺繍がそのまま残る貴重な「本物」。 |
|
上杉謙信 |
赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套 |
米沢市上杉神社 |
信長から贈られたマント。 謙信はこれらを非常に気に入り、たびたび羽織っていたとも伝わる。 |
| 伊達政宗 | 紫地羅紗地五色羅紗水玉模様陣羽織 | 仙台市博物館 | “伊達者”の語源となった政宗。南蛮マントの生地を使い、現代のポップアートのような水玉模様をあしらった斬新な一着。 |
上杉謙信や秀吉の元にこれほど見事なマントが現存しているということは、彼らよりも早く南蛮文化のトップランナーであった信長が、さらに洗練された高級マントを羽織っていたことは間違いないでしょう。
まとめ:本物は消えても、マントは信長の精神(ロマン)として現存する
織田信長とマント、そして「本物」を巡る検証をまとめます。
本物のマントは現存する?
残念ながら、信長自身が着たマントそのものの完品は本能寺の変や経年などで現存していない。
本当にマントを持っていた?
持っていた。 宣教師からの献上だけでなく、上杉謙信へ南蛮マントを贈った記録が残っている。
現代に残る「本物」の代わりは?
謙信・秀吉らの現存マント(重要文化財)から、当時のリアルな姿を想像、追体験できる。
また、江戸時代に作られた陣羽織は、マントの素材(羅紗、天鵞絨)を使用し、マントの子孫にあたると言える。
実際の信長は、合戦の最中には動きやすさを重視して伝統的な和の鎧(紺糸威胴丸具足など)を着ていたと言われています。しかし、ひとたび戦場を離れれば、誰よりも早く世界の最先端(マント)を身にまとい、その圧倒的なビジュアルで天下に己の力を誇示していました。
本物の衣服は灰になってしまいましたが、彼がマントに込めた「革新の精神」は、400年以上経った今も私たちの心の中に「信長といえばマント」という不滅のロマンとして現存し続けているのです。
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