織田信長、日本人なら誰でも知っている有名人ですが、知っているようで知らない、あるいはドラマの影響で創作が史実と思われているものを紹介していきます。
織田信長 七つの家紋
信長の家紋は7種類あったと言われています。
1.木瓜
2.揚羽蝶
3.永楽銭
4.五三桐
5.無文字
6.丸に二つ引き
7.十六葉菊
どれが本物なのでしょうか?
1.木瓜(もっこう)
信長の家紋の中では最も有名な家紋ではないでしょうか。
信長の出身地近くに津島神社というところがあります。
津島神社の紋も同じく木瓜紋です。
歴史的背景から考えると、信長(織田家)が津島神社の木瓜紋を使用し始めたと
考えるのが合理的解釈と思われます。
なお
津島神社は須佐之男命(スサノオノミコト)を祭神としています。
須佐之男命は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の弟で、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を
退治した神様としても有名です。
同じ須佐之男命を祭神としている京都の八坂神社の紋は五花に唐花(ゴカニカラハナ)
非常によく似ていますが、別の紋です。
津島神社も八坂神社も須佐之男命を祭神にしていますが、紋は似ているが別ものです。
2.揚羽蝶(あげはちょう)
織田家では揚羽蝶デザインの陣羽織を使用していたようです。
陣羽織 黒鳥毛揚羽蝶模様/東京国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/424335
ネットなどで見かける横向きの揚羽蝶紋ではなく、正面から羽根を広げた揚羽蝶のデザインです。
信長が、いつどこで横向きの揚羽蝶紋を使用していたかはわかりませんが、揚羽蝶デザインの陣羽織をしようした可能性はありますね。
3.永楽通宝(えいらくつうほう)
信長の家紋ではなく、軍旗、旗印のデザインに使われていました。
軍旗のデザインは
強そう、縁起がいい、かっこいい
例 千成瓢箪(秀吉)
自分の信念
例 風林火山、毘(毘沙門天)
信長が「経済力を重視していたから」お金の永楽通宝を旗印のデザインに取り入れたとの解説が一般的です。
明の永楽帝の強さにあやかりたかったのではないか、と私は考えています。
今で言うならお札の肖像画になるような人物です。信長のあこがれの人だったかもしれません。
5.無文字
6.丸に二つ引き
この2つは、いつ、どこで使用していたのかわかりません。
「旗印として使用していた」という情報があります。
旗印は数種類も使い分けていたそうなので、そのうちのひとつかもしれません。
やはり最も有名な旗印は永楽銭ではないでしょうか。
7.十六葉菊
正親町天皇(おおきまちてんのう)から下賜されたということです。
菊の紋章を下賜されたからといって、自分の紋章として使用するというより
使用許可書のようなものを大切に保管していたのではないか
と想像しています。
桐の紋は肖像画の肩に描かれています。
桐は公式の場で勲章のようにつけて、周囲に見せて自己の権威を示す。
菊の紋(使用許可書)はもらった、という事実に意味があるのではないでしょうか。
まとめると
1.木瓜 家紋として普段使い
2.揚羽蝶 陣羽織にデザインしてつかっていたかも
3.永楽銭 旗印のひとつとして使用、一番のお気に入り
4.五三桐 将軍から下賜、公式の場で自分の権威付けに使用
5.無文字 いくつかある旗印のひとつ
6.丸に二つ引き いくつかある旗印のひとつ
7.十六葉菊 天皇より下賜されたが、使用ではなく大切に保管
すべて本物、使用場面がちがうということが真相のようです。
織田信長 兜・鎧・甲冑
信長の鎧・兜・甲冑というとどのようなイメージをお持ちでしょうか?
まず、鎧・兜・甲冑の違いから確認しておきます。
甲冑=兜+鎧
兜(かぶと)は頭にかぶるもの、鎧(よろい)は身体に着けるもの
兜と鎧を合わせて甲冑(かっちゅう)と言います。
以下、甲冑で統一して話を進めていきます。
ドラマやイラストで目にする信長の甲冑姿の多くは
「南蛮胴」を身に着けた姿ではないでしょうか。
南蛮胴とは、西洋の鎧を模して作成された甲冑です。
日本に伝わったのは戦国時代末期から江戸の最初期あたりです。
時代的に信長が南蛮胴を着用したとは考えにくいようです。
ただ、信長の斬新で新しいもの好き、スマートでスタイリッシュなイメージから
南蛮胴着用のイメージが定着していったのかもしれません。
ドラマやイラストでの影響が強いので
実際に着用していたように思ってしまいますね。
では、信長はどのような甲冑を身に着けていたのか?
結論から言いますと、確実に信長のものと言える甲冑は現存していません。
結局、ドラマ制作陣により作られたイメージ=私たちのイメージとなっていのが現状です。
信長の甲冑姿は各人が自由にイメージしていいのではないでしょうか。
なお、付け加えておきますと
京都井伊美術館に「伝 織田信長所用」という甲冑は現存しています。
「伝」ということなので、信長が使用した可能性がある甲冑ということですね。
南蛮胴とは違った斬新さがある甲冑です。こちらもぜひご覧になっていただきたい甲冑です。
私個人としては、南蛮胴よりこちらを身に着けている方が信長らしく感じます。
井伊美術館
https://www.ii-museum.jp/%E8%A4%87%E8%A3%BD-%E6%A3%AE%E5%BF%A0%E6%94%BF-1
織田信長 十ヶ所以上の墓
織田信長の墓はどこにあるか、ご存じでしょうか?
十ヶ所とも二十ヶ所とも言われており、正確な数はわかりません。
主なものを五つ紹介します。
1.高野山奥の院(和歌山)
実際に見たことがあります。
信長のみならず、秀吉など多くの武将のお墓があります。
実際にお骨が収められているかはわかりませんが、高野山にお墓を持つ、作ることが
「ステイタス」だったようです。
お墓が奥にあればあるほど、ステイタスが高く、権威付けになります。
2.阿弥陀寺(京都)
京都における織田家の菩提寺。本能寺の変の後、開祖玉誉清正が信長の遺灰を持ち帰って墓を築きました。
1917年(大正10)勅使(天皇からの使者)が来訪し、阿弥陀寺の信長の墓を「織田信長公本廟」として公認されています。
本能寺の変の後、信長の遺灰を判別できたということでしょうか。「遺灰」については他のお墓は言及していません。
3.大徳寺総見院(京都)
秀吉が信長の冥福を祈って建立した寺院です。こちらも立派な寺院です。信長像が安置されています。
4.本能寺(京都)
本能寺の隅に信長のお墓がありました。
現在の本能寺は、本能寺の変の時の本能寺とは場所も規模も違いますが、その流れを汲んでいます。
戦国時代の寺院の中には、小さな砦、要塞のような機能(堀、武器庫など)を有しているものもありました。
おそらく当時の本能寺も砦のような機能をもっていたのではないでしょうか。信長にとって本能寺は旅館ではなく砦のような機能を有していたため、滞在していたのだと思います。
5.崇福寺(岐阜)
信長が岐阜における菩提所としていました。
本能寺の変の後、信長の側室お鍋の方により、信長の遺品を送られました。その遺品を寺内に埋めて位牌を安置したことが始まりです。
ほかにも全国に多数存在しています。
信長の遺体が発見されていないので、納骨ができませんでした。信長を敬愛していた人々がそれぞれにお墓を建立した結果、お墓が多数存在することになりました。
信長を思う気持ちから生じたお墓は、すべて本物、という結論でいかがでしょうか。

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