長篠の戦いはなぜ起こったのか?三方ヶ原の戦いから続く武田・徳川の因縁をわかりやすく解説!武田勝頼が三河・遠江を欲した本当の理由とは?

戦国時代屈指の大決戦として知られる「長篠(ながしの)の戦い」。 織田信長・徳川家康の連合軍が、当時最強と謳われた武田勝頼の軍勢を圧倒的な鉄砲戦術で破ったとされる、歴史の教科書でもおなじみの合戦です。

しかし、「なぜこの戦いが起こったのか?」という本当の原因を、みなさんはご存知でしょうか?

実は、長篠の戦いの原因を深く紐解いていくと、その3年前に起きた徳川家康の歴史的大惨敗「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」へと行き着きます。この2つの戦いは、別々の出来事ではなく、完全に一つの地続きのストーリー(因縁の戦い)なのです。

この記事では、武田氏(信玄・勝頼)がなぜそこまでして徳川の領地(三河・遠江)を欲したのかという根本的な理由と、三方ヶ原から長篠の戦いへと至る激動のタイムライン、そして戦いの真の原因までを、わかりやすく解説します!

なぜ武田氏は三河・遠江を欲したのか?4つの生存戦略

長篠の戦いや三方ヶ原の戦いの舞台となったのは、三河(現在の愛知県東部)と遠江(現在の静岡県西部)という地域です。 山深い甲斐(山梨県)や信濃(長野県)を本拠地とする武田軍が、なぜ国境を越えてこの土地へ執拗に攻め込んだのか。そこには、武田家という巨大軍団を維持するための「切実な生存戦略」がありました。

悲願である「海(塩と富)」の獲得(経済的理由1)

武田の本拠地である甲斐・信濃は、四方を山に囲まれた内陸国です。当時、人間が生きていく上で、そして軍隊を維持する上で最も致命的だったのが「塩の不足」でした。 他国に流通を止められる(いわゆる『敵に塩を送る』の語源)と、国が干上がってしまうため、武田にとって「自国に港(海)を持つこと」は長年の悲願でした。太平洋に面し、豊かな港や塩田を持つ遠江や三河は、経済的にも喉から手が出るほど欲しい土地だったのです。

肥大化した「武田軍団」を養うため(経済的理由2)

戦国最強と謳われた武田軍ですが、その大軍を維持するためには膨大なコストがかかります。甲斐(22万石)は山がちで農業生産力が弱く、信濃(40万石)を加えただけでは、家臣たちに与える新たな領地(恩賞)が不足していました。そのため、温暖で比較的豊かであり、切り崩しやすそうに見えた徳川の領地(三河、遠江54万石)へ侵攻せざるを得ないという側面もありました。

京都への進出(上洛)ルートの確保(軍事的・地理的理由)

東海道は交通の要衝であり、そこを獲得することにより、物流を抑え兵を素早く動かすことができます。また長篠(三河・徳川領)は信濃(武田領)から続く山道の進んだ出口にあたります。
戦国大名としての最終目標は、京都へ上って将軍や朝廷を奉じ、天下に号令すること(上洛)です。 甲斐から京都を目指す場合、北の上杉謙信を警戒しながら険しい山を越えるルートよりも、東海道を西へ進むルートが最も効率的です。そのためには徳川家康が支配する遠江と三河を絶対に突き抜けなければなりませんでした。

信長包囲網と将軍・足利義昭からの要請(政治的理由)

元亀3年(1572年)、織田信長と対立した室町幕府15代将軍・足利義昭は、全国の大名に「信長を倒せ」という命令を出します。これによって結成されたのが「信長包囲網」です。 武田信玄はこの包囲網の事実上の中心人物として、信長を背後から叩くために西上作戦を開始します。このとき、信長の同盟相手であり、織田領への防波堤となっていた徳川家康(三河・遠江)を倒すことは、絶対条件だったのです。

三方ヶ原の戦いから長篠の戦いへの流れ

武田と徳川、そして織田の因縁はどのように激化していったのか。三方ヶ原の戦いから長篠の戦いまでの激動の3年間を時系列で見ていきましょう。

1572年12月:三方ヶ原の戦い(徳川家康、人生最大の惨敗)

信玄(52歳)家康(31歳)義昭(36歳)※数え年

将軍・義昭の要請に応じた武田信玄が、大軍を率いて遠江・三河へ侵攻。浜松城近くの三方ヶ原で徳川家康を文字通り完膚なきまでに叩きのめします。家康は命からがら逃げ延び、武田の圧倒的な恐怖が刷り込まれました。

織田・徳川連合軍を粉砕したこの三方ヶ原の戦い。
信玄の影に隠れがちですが、実は最前線で主力部隊(小山田隊などと並ぶ突撃部隊)を率いて家康の陣を真っ先に叩いた将こそ、息子の武田勝頼でした。 勝頼はこの戦いで、誰もが認める最大の功労者だったのです。家康からすれば、勝頼は「自分を殺しかけた恐るべき現場リーダー」そのものでした。家康は勝頼に負けたのです。
また、武田軍の別動隊が、信濃から三河の長篠を通って本隊に合流し、三方ヶ原の戦いに参加しています。長篠は、武田・徳川の因縁の場所でもあるのです。

1573年4月:武田信玄の急死と武田軍の撤退

信玄(享年53歳)

三方ヶ原で大勝し、京都へ向けて快進撃を続けると思われた武田軍ですが、進軍途中に大黒柱の信玄が病死してしまいます。武田軍は作戦を中止し、甲斐へと退却せざるを得なくなりました。 さらに同年の1573年7月、織田信長によって足利義昭が京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡します。

1573年 夏〜秋:徳川家康の「猛烈な反撃」と長篠城奪還

最大の脅威であった信玄が世を去ったことを知った家康は、すぐさま反撃に出ます。武田に奪われていた三河・遠江の領地を猛スピードで奪い返していいきました。 この時に長篠城も徳川方に奪還され、元々は武田に従っていた地元の有力者・奥平貞昌(のちの信昌)を、破格の好条件で徳川方に寝返らせることに成功します。

1574年:新当主・武田勝頼の家督継承と「焦り」

信玄の跡を継いだ息子の武田勝頼は、父の死によって失墜した武田の威信を取り戻そうと躍起になります。 当時の勝頼は「偉大な父(信玄)に負けない実績を早く示さなければ、古参の家臣たちが付いてこない」という強いプレッシャーを抱えていました。勝頼は再び徳川領へ激しい侵攻を仕掛け、家康を追い詰めていきます。

1575年5月:長篠の戦い(因縁のリベンジマッチ勃発)

信長(42歳)家康(34歳)勝頼(30歳)

勝頼は、裏切った奥平氏への見せしめと、三河侵攻の拠点を取り戻すため、1万5000の大軍で長篠城を包囲。 わずか500人で籠城する奥平貞昌のSOSに応じ、織田信長が3万、徳川家康が8000の連合軍を率いて出陣。こうして設楽原(したらがはら)での決戦へと繋がっていきます。

 なぜ長篠の戦いは起こったのか? 2つの真の原因

ここで歴史の年号に詳しい方なら、ある矛盾に気づくかもしれません。 「将軍の要請(信長包囲網)による西上作戦」が原因なら、1573年に室町幕府が滅亡している以上、1575年の長篠の戦いの原因にはあてまらないのでは? という疑問です。

その指摘は非常に鋭いです。実際、長篠の戦いが起きた時(1575年)、すでに「将軍のために戦う」という大義名分は過去のものになっていました。では、なぜ戦いは起こったのか。理由は2つの「当事者たちの心理」にあります。

原因①:武田勝頼の「プライド」と「領地奪還」

勝頼にとって、身内同然だった奥平氏に裏切られ、戦略的要衝である長篠城を徳川に奪われたことは、絶対に許せない屈辱でした。 さらに前述の通り、勝頼は3年前の三方ヶ原の戦いで「自分が主力として勝ち取った三河・遠江の覇権」を、信玄の死後に家康からコソコソと奪い返された格好になります。

勝頼からすれば、「父が死んだ途端に、自分が命がけで奪った領地を横取りしやがって」という怒りとプライドの火花が散っていたわけです。 幕府が滅亡したとしても、新当主としての威信を守り、武田家単独の生存をかけるために、長篠城の奪還は絶対に引けない戦いへと変貌していました。

原因②:織田信長の「今度こそ家康を絶対に助ける」という心理

3年前の三方ヶ原の戦いのとき、信長は他の戦場で手一杯で、家康にわずかな援軍しか送れず、家康を死なせかけました。信長には「あのとき家康を見捨てかけてしまった」という強い負い目がありました。 長篠の戦いの当時も、信長は石山本願寺との戦争で多忙でしたが、「今度こそ武田を根本から叩き潰す」として3万人という異例の大軍を自ら率いて本気で救援に向かったのです。

まとめ:三方ヶ原が「第1ラウンド」なら、長篠は「最終決戦」

歴史の教科書では別々に語られがちな「三方ヶ原の戦い」と「長篠の戦い」ですが、その中身は完全に繋がっています。

武田にとっては: 信玄の死で中断された「三河・遠江制圧ルート」の再開と、裏切り者への報復

徳川にとっては: 三方ヶ原の惨敗から這い上がり、領地を死守するための防衛戦

織田にとっては: 同盟国・徳川への負い目を返し、背後から迫る脅威(武田)の息の根を止めるチャンス

長篠の戦いは、単なる偶然の衝突ではなく、三方ヶ原の戦いから始まった3年間にわたる武将たちの意地とプライド、そして生存戦略が引き起こした「必然の戦い」だったのです。

次に大河ドラマや歴史小説を読むときは、ぜひこの「3年間の因縁の流れ」を思い浮かべながら楽しんでみてください。

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