石山本願寺と信長|顕如:信長を最も苦しめた男──大坂を巡る「10年戦争」と現代に続く怨念の傷跡

大坂を巡る「10年戦争」と現代に続く怨念の傷跡

地方の一向一揆をどれだけ潰しても、全国から自動でお金が集まる「最強の集金システム」を持つ総本山・石山本願寺は揺らぎませんでした。大坂の一等地を巡る信長と顕如の10年戦争。
しかし、その結末には、信長への「激しい恨みの温度差」がもたらした、本願寺を真っ二つに引き裂く親子喧嘩が待っていました。現代の京都にある西本願寺・東本願寺の謎が明かされます。

すべての一揆の糸を引く、最後の巨大な壁

比叡山延暦寺を焼き払い、長島や越前の激しい一向一揆をすべて力技で沈めてきた織田信長。誰もが彼を恐れ、ひれ伏す中で、最後の最後まで信長の前に立ちはだかり、最も長い歳月を戦い抜いた大ボスがいます。

それが、浄土真宗本願寺派の最高権力者、本願寺顕如(けんにょ)です。

信長がこれまでに戦ってきた各地の一向一揆は、いわばこの顕如率いる本願寺の「支店」に過ぎませんでした。信長がどれだけ地方の支店を潰そうとも、大坂(大阪)にある「本店」が健在である限り、顕如は一本の手紙で何度でも全国の門徒を蜂起させることができたのです。

信長と顕如の戦いは「石山合戦(いしやまかっせん)」と呼ばれ、なんと丸10年もの長きに及びました。

天下統一を目前にした信長が、なぜ一介のお寺を相手にこれほど手こずったのか。そして、この戦いが遺した「巨大な恨みのエネルギー」が、現代の日本にどう繋がっているのか。戦国最大の宗教戦争のフィナーレを解き明かします。

信長がどうしても欲しがった、大坂という「金の卵」

すべての始まりは元亀元年(1570年)、信長が顕如に対して「大坂の石山本願寺(現在の大阪城がある場所)を明け渡せ」と理不尽な要求を突きつけたことでした。

信長には土地を譲り受ける正当な理由などありませんでした。しかし、世間から「強欲だ」と批判されても、武力を使ってでも、信長はこの場所が欲しかったのです。なぜなら、ここが「日本一の富を生み出す、物流の超一等地」だったからです。
なお、現代なら正当な理由があれば、国や自治体が法律に基づき相当の補償をして「収用」するところでしょうか。

当時の石山本願寺は、大きな川の河口に位置し、京都(内陸)と瀬戸内海(海上)を繋ぐ水の道のど真ん中にありました。お寺の周りには広大な商業街が広がり、税金がかからない特権を活かして、連日無数の船と商人が行き交う、まばゆいばかりの繁栄を誇っていました。

若き日から「物流と商業を押さえた者が勝つ」という信念を持っていた信長にとって、この大坂は、天下を統治するために何が何でも手に入れなければならない最重要の拠点でした。

しかし、顕如にとっても、ここは先祖代々が血のにじむような努力で開拓し、日本最大の商業地へと育て上げた命の結晶です。顕如は「信長は仏法を滅ぼす敵である」と宣言し、全国から自動でお金が集まる「最強の集金システム(お布施)」を軍資金にして、鉄壁の要塞に立て籠もったのです。

最終決戦:海を塞いだ信長と、顕如の降伏

信長がいくら陸の上から本願寺を包囲しても、毛利氏の水軍が瀬戸内海から船で次々と米や火薬を運び込んだため、顕如たちは10年も耐え抜くことができました。「海からの物資の補給を止めない限り、この戦争は終わらない」

そう確信した信長が仕掛けたのが、戦国時代の常識をひっくり返す大技でした。信長は、大砲を何門も積んだ、周りを鉄板で覆った巨大な「鉄の船(鉄甲船)」を建造させたのです。

天正6年(1578年)、この鉄の船が大阪湾の海の上を完全に封鎖。命綱だった補給ルートを断ち切られた本願寺は、一気に激しい兵糧不足に陥りました。

これ以上の抵抗は無理だと悟った顕如は、天正8年(1580年)、正親町(おおぎまち)天皇の仲介という形を取り、「天皇の命令に従う」という名目で、ついに大坂の土地を信長に明け渡して退去することを受け入れました。信長の執念の物流封鎖が、顕如の集金網に勝利した瞬間でした。

戦争が終わっても消えなかった「信長への怨念」

巨魁の顕如が退去したことで、10年戦争は幕を閉じました。しかし、すべての門徒がこの降伏に納得したわけではありませんでした。

「信長への恨みは晴らせない!まだ戦うべきだ!」と怒り狂ったのが、顕如の長男である教如(きょうにょ)です。教如は父親の命令を完全に無視し、過激派の門徒たちと共にそのまま石山本願寺に立て籠もり、信長への徹底抗戦を続けようとしたのです。

最終的には周囲に説得されて教如も退去し、本願寺の建物は激しい炎に包まれて灰になりましたが、この「信長を許すか、許さないか」という親子・門徒たちの激しい対立(恨みの温度差)は、消えない火種として深く残ることになりました。

そしてこの怨念の亀裂に目をつけたのが、信長の次の次の天下人、徳川家康でした。

家康は後に、本願寺の巨大な影響力を弱めるため、このかつての親子喧嘩の火種を利用します。父・顕如の流れを汲むグループと、信長に激しく反発した長男・教如のグループを意図的に独立させ、本願寺を2つの組織に完全に分裂させたのです。

これこそが、現代の京都に並んで建っている「西本願寺」と「東本願寺」の正体です。一つの巨大宗教組織を真っ二つに引き裂いてしまうほど、信長が買った恨みのエネルギーは凄まじいものだったのです。

家康の本願寺の内部紛争を利用して弱体化を図る方法は、本能寺の変の後、織田家臣団の内紛の隙に関東での足場を固めたやり方に通じるものがあります。織田・今川の間で生き残りを賭けた幼いころの知恵が息づいているのではないでしょうか。

結論:信長が切り開いた、新しい日本のカタチ

織田信長という男は、決して神や仏を信じない狂人だったわけではありません。

宗教の衣を着て脱税と利権を貪り、根拠のない通行税の強制徴収で物流を止め、大名の支配を全否定して独立国を作ろうとする──そんな中世の古い組織を力技で強制解体し、すべての流通を自由化して国を強くしようとした改革者だったのです。

信長が欲しがった大坂の跡地は、後に豊臣秀吉によって「大坂城」へと生まれ変わり、やがて「天下の台所」と呼ばれる日本最大の商業都市へと発展していきました。

現代の私たちが生きる日本の都市や経済の基盤、そして京都、大坂の景色は、信長が命がけで繰り広げた、この凄まじい宗教サバイバルの果てに作られたものだったのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました