織田信長の天下布武を裏から支えた、最強のビジネスパートナー・徳川家康。 前回の記事(※本編へのリンク)では、家康の領地である「三河・遠江(現在の愛知県東部〜静岡県西部)」の強固な産業基盤が、織田・徳川連合軍のスタミナになっていたとお話ししました。
ここで一つの疑問が浮かびます。 「なぜ、当時の三河や遠江には、それほど高度な技術を持った職人集団が集まっていたのか?」
実は、現代でも愛知県(トヨタに代表される自動車産業)や浜松(ヤマハ、スズキなどのバイク・楽器産業)は日本屈指の「ものづくり王国」として世界に知られています。そのDNAは、偶然できたものではありません。
今回は、戦国時代の三河・遠江に最強の職人たちが集結した「4つの理由」を経済と歴史の視点から紐解きます。
地殻変動がもたらした「奇跡の原材料ルート」
職人が集まり、産業が発展するためには、何よりもまず「原材料」が現地で手に入ることが絶対条件です。
三河から遠江にかけての一帯は、日本最大の断層帯である「中央構造線」が縦断しています。この数百万年におよぶ激しい地殻変動の副産物として、この地域は天の恵みとも言える「鉱物資源」が非常に豊富でした。
奥三河や遠江の山間部(天竜川流域など)では、良質な鉄の原料となる「砂鉄」や「鉄鉱石」が大量に採取できました。さらに、金属を溶かして形を作る「鋳物(いもの)」に欠かせない、質の良い砂や粘土がすぐ近くの河川敷からいくらでも手に入ったのです。
「材料が安価で手に入り、すぐに加工できる土地」――この圧倒的な地理的アドバンテージが、金属を扱う鍛冶屋や鋳物師(いものし)といったプロフェッショナルたちを引き寄せる強力な磁場となりました。
巨大な「神社仏閣」という最強のパトロン
戦国時代、あるいはそれより古い時代において、職人たちの最大の雇い主(パトロン)は、大名ではなく「宗教勢力(神社や寺院)」でした。
当時の三河・遠江には、全国から熱狂的な信仰を集める巨大な寺社勢力がひしめき合っていました。
遠江の秋葉山(秋葉神社): 日本全国に分社を持つ、火防(ひよけ)の神様の総本山。
奥三河の鳳来寺: 霊山として名高く、のちに家康の誕生伝説とも結びつく巨刹。
三河三ヶ寺(本証寺など): 守護大名すら立ち入れないほどの経済力を持った浄土真宗の巨大寺院。
これらの巨大な建物を維持・改修するため、また、神仏に捧げる巨大な「寺の鐘(梵鐘)」や「きらびやかな仏具」を作るために、日本中から京都や奈良の最先端技術を持った大工、石工、鋳物師がスカウトされ、この地に派遣されました。また、奥三河や遠江の山間部、天竜川流域などからは良質な木材を入手することができ、建築職人(大工)や造船職人、木工職人が育つ土壌ができました。
そして彼らは仕事が終わった後もこの地に残り、地元の人々に技術を伝えながら土着化していったのです。
「東海道」という大動脈
職人が作った製品を売るためには、市場が必要です。
東海道という日本最大の陸路が通っていたため、京都や鎌倉(江戸)といった大都市の最新トレンドや技術がすぐに入ってきました。また、作った製品(刀、農具、織物など)を旅人や商人に売る「宿場町」や「市場」が発達したため、職人たちにとってビジネスがしやすい環境でした。
さらに、家康が信長と組むことにより、岐阜、京都という大都市に向けた大量消費を期待することができました。
家康の徹底した職人の「保護制度」
資源があり、技術のベースがあっても、戦争ばかりの戦国時代では職人たちも逃げ出してしまいます。ここで決定打となったのが、徳川家康による徹底的な「職人優遇政策」でした。
今川家から独立したばかりの若い家康は、織田信長に対抗するためにも、自国で武器(刀剣・槍、そして最新の鉄砲の部品)を自給自足する必要性を痛感していました。 そこで家康は、領内の職人たちに対して、当時としてはあり得ない破格の特権を与えたのです。
「諸役免除(しょえきめんじょ)」の特権: 職人たちからは、重い税金(年貢)を取りませんでした。さらに、戦国時代に一般庶民が強制労働させられた「城の石垣掘り」や「泥臭い土木作業(陣夫)」も一切免除しました。
「関所の通行自由」: どこへ移動して商売をしても、関所での通行税を免除しました。
家康のこの「職人優遇」の噂は一瞬で日本中に広がります。「三河や遠江に行けば、税金や面倒な労働から解放されて、腕一本でものづくりに没頭できる!」
こうして、全国からさらに腕利きの職人やエンジニアたちが徳川の領地へ移住し、家康を支える「最強の戦国軍需工場」が完成したのです。
徳川家康が、中央構造線の恵み(資源)、寺社勢力の基盤(技術)と地の利(東海道)を活かし、優れた政策で職人を優遇したこと。これこそが、三河・遠江に職人集団が集まっていた最大の理由です。
家康が育てたこの職人たちの気質、そして金属加工や木工の高度な技術は、江戸時代の平和な時代になっても失われませんでした。それどころか、綿々と次の世代へ受け継がれていくことになります。
三河の綿織物や金属加工の技術は、明治以降に豊田佐吉の自動織機「トヨタ紡織」へ、そして「トヨタ自動車」へと進化しました。
遠江(浜松)の高度な木工技術や鋳物技術は、山葉寅楠のオルガン修理から始まる「ヤマハ(楽器・バイク)」や、「スズキ」「ホンダ」の創業へと繋がっていきます。
信長の天下統一の裏には、家康が用意した「450年後の現代日本をも支える、ものづくり王国のプロトタイプ(原型)」があったのです。
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