南蛮貿易の正体!なぜ南蛮船(ポルトガル)が日本に来たのか?日明の国交断絶と「最強のせどりビジネス」【世界史編】

教科書が教えない「南蛮貿易」が始まった本当の理由

戦国時代、日本にやってきてキリスト教を広め、鉄砲や硝石を売りさばいたポルトガルやスペインなどの「南蛮人」。

私たちは学校の教科書で、彼らがはるばるヨーロッパから最新のテクノロジーや珍しいヨーロッパ製品(ワインやガラス細工など)を日本に売りに来た、と習います。

しかし、ここに大きな勘違い(誤解)があります。

実は、南蛮船が日本に持ってきた荷物のうち、ヨーロッパ製の商品はほんの数パーセントに過ぎませんでした。彼らが船に満載していた主力商品は、なんと「中国(明:みん)の高級生糸やシルク(絹織物)」だったのです。

「なぜ、ヨーロッパの商人であるポルトガル人が、お隣の中国の製品を日本に売っていたのか?」 「なぜ、日本は隣の中国から直接買わずに、わざわざ地球の裏側から来た南蛮人から中国製品を高く買っていたのか?」

その裏には、当時のアジアを揺るがした「日本と明の国交断絶」という大事件と、その国際政治の「歪み」に目をつけたポルトガルによる、歴史上最も成功した「仲介せどりビジネス」のドラマがありました。

今回は、戦国時代の日本が巻き込まれていた「壮大な世界経済の裏側」を、現代のビジネス視点でわかりやすく紐解いていきます。

日本と明の公式ルートが「大名の殺し合い」で完全消滅した日

時計の針を、織田信長が生まれる(1534年)少し前の1523年に巻き戻してみましょう。

当時、日本(室町幕府)と明(中国)の間では、「勘合貿易(かんごうぼうえき)」という正式な貿易が行われていました。明の皇帝から「お墨付き(勘合符)」をもらった日本の代表だけが、公式に中国の高級生糸や薬を仕入れることができるルールです。

しかし、室町幕府の権威が衰えると、この莫大な利益を生む貿易の主導権をめぐって、日本の2大超有力大名が激しい内ゲバを始めます。中国地方の「大内(おおうち)氏」と、四国の「細川(ほそかわ)氏」です。

大内氏
本拠地は山口。博多の港を抑えており、「北九州から日本海を通るルート」で貿易をしたい。

細川氏
 本拠地は四国や近畿。堺の港を抑えており、「瀬戸内海を通るルート」で貿易をしたい。

そして1523年、ついに一線を超えた大事件が起きます。明の貿易港である寧波(ニンポー)で、大内氏の軍勢と細川氏の軍勢が、どちらが先に取引するかをめぐってガチの合戦(殺し合い)を始めてしまったのです(寧波の乱)。

 

「実はこの細川氏と大内氏、さかのぼればあの『応仁の乱』で京都を焼け野原にした、東軍と西軍のトップ同士(宿命のライバル)。瀬戸内海の貿易ルートをめぐる50年以上の泥沼の利権争いが、ついに日本を飛び出し、明の港でのガチの殺し合い(寧波の乱)として大爆発してしまったのです」

 

日本の大名軍勢が、明の国境で大暴れし、明の役人を殺害し、街を焼き払って船を奪って逃走する――。

これに激怒した明の政府は、日本に対する不信感を爆発させます。「日本人は野蛮で危険すぎる。二度と我が国に入れるな!」と、貿易の窓口を閉鎖。その後、大内氏が滅亡したことで、日本と明の正式な国交と貿易ルートは完全に断絶してしまいました。

公式がダメなら非公式で!「後期倭寇」という国際密売ネットワーク

しかし、正式なルートが途絶えたからといって、人間の欲は止まりません。

日本側のニーズ
天下統一を目指す戦国大名や富豪たちは、ステータスである「明の高級生糸や絹織物」が喉から手が出るほど欲しい。

明側のニーズ
 明の商人や地方官僚は、当時日本(石見銀山など)で大量に採掘され始めていた「高品質な銀」がどうしても欲しい。

両者のニーズが完全に一致しているのに、政府が「貿易禁止(海禁政策)」の壁を作っている。その結果、何が起きたかというと、歴史の必然である「巨大な密貿易ネットワーク」の誕生です。

これこそが、教科書に登場する「後期倭寇(わこう)」の正体です。 倭寇というと「日本の海賊」をイメージしがちですが、実態は「明の商人が主導し、日本の大名や商人がバックアップした、多国籍の武装密売組織」でした。
構成員は日本人ほか明、東南アジア、ポルトガル等の出身者です。倭寇とはいえ、後期倭寇は日本人2割程度と言われています。彼らは明の沿岸で密売を繰り返し、明の政府と激しいゲリラ戦を繰り広げていたのです。

ポルトガルの上陸:「国交断絶」のニッチを突いた最強のせどりモデル

明の政府による密貿易の取り締まりがどんどん厳しくなり、日明の商人が命がけで取引をしていたその時、絶妙なタイミングでアジアの海に現れたのがポルトガル人でした。

彼らは「明」と「日本」の双方が抱える致命的な弱点を見抜きます。 「二人はこんなに取引したいのに、お互いの国に入ることができない」

ここに、ポルトガルの大儲けのチャンスが生まれました。 ポルトガルは、卓越した外交術(と賄賂)によって、明の政府から「マカオ」という港の居住権をゲットすることに成功します。マカオに拠点を置いたポルトガルは、明の政府から見れば「合法的な外国人」です。そのため、明の国内で堂々と生糸やシルクを大量に仕入れることができました。

彼らのビジネス仕組みは、驚くほどシンプルで強力でした。

仕入れ: 明の「マカオ」で、正規の手続きで大量の高級生糸を安く仕入れる。

輸送: 巨大な南蛮船(ナウ船)にそれを積み、明の法律が及ばない「日本」へ運ぶ。

販売: 日本の九州(長崎・平戸など)に上陸し、中国製品に飢えていた日本の大名や商人に、中国での仕入れ値の数倍〜数十倍という超高値で売りさばく。

回収: 代金として、日本国内で大増産されていた「銀」を根こそぎ回収する。

再投資: その銀を再びマカオ(明)に持ち込み、銀不足に悩んでいた明で生糸をさらに大量に仕入れる。

これこそが、南蛮貿易の本当の正体です。彼らはヨーロッパの毛織物を売りに来たのではなく、「日明の国交断絶」という規制(法律の壁)のスキマを突いて、中国のモノを日本へ、日本の銀を中国へ横流しする「最強の中継せどり(仲介)ビジネス」で暴利を貪っていたのです。

結論:この世界情勢の「歪み」の果てに、織田信長がいた

このポルトガルの「マカオ=日本」のせどりルートが完成したことで、日本の九州には毎年、大量の生糸と、そして軍事バランスをひっくり返す「鉄砲・硝石(火薬の原料)」が持ち込まれるようになります。

九州の大名たちは、自分の港にやってくる南蛮船を歓迎し、ポルトガル人から直接商品を買い付けて転売する「輸入セレクトショップ」として富を築きました。

しかし、ここで前々回の記事(仕組み編)の話に繋がります。

織田信長は、わざわざ命がけで南蛮船を自分の領地に呼ぼうとはしませんでした。なぜなら信長は、国際情勢のさらに先を読んでいたからです。

「ポルトガルが明から仕入れて、九州の大名が国内に持ち込んだ生糸や硝石は、最終的に日本で一番人口が多く、一番金持ちが集まっている『京都や堺(畿内)』に売りに来なければ、彼らも大金に換えられないはずだ

信長は、国際貿易の「川上(港)」でせこせこ仕入れ競争をするのではなく、すべての物資が最終的に流れ着く「川下(市場)」である京都と堺を武力で制圧し、そこに「楽市楽座」という最強のプラットフォーム(場)を創り上げました。

日本と明の国交断絶が生んだ、ポルトガルの南蛮貿易。 そして、その南蛮貿易がもたらした巨万の富を、一歩も動かずに日本の中心で網羅し、すべてを自分の軍事力へと投資した織田信長。

戦国時代の日本は、決して孤立した島国ではありませんでした。世界経済のダイナミックな「歪み」と、それを誰よりも冷徹に見抜いた信長のビジネスセンスこそが、彼を「戦国最強の覇者」へと押し上げた本質なのです。

「ビジネス視点で読み解く!織田信長の経済戦略」シリーズ(全4編)

第1回: [織田信長は南蛮貿易をしていない?領地に南蛮船が来ないのに「最強」になれた本当の正体【仕組み編】]

第2回: [織田信長の生い立ち|なぜ領地に南蛮船が来ないのに、誰よりもキレ者の「天才実業家」になれたのか?【生い立ち編】]

第3回(本編) [なぜ日本に南蛮船(ポルトガル)が来たのか?日明の国交断絶と「最強のせどりビジネス」の正体【世界史編】]

第4回: 信長から南蛮貿易は家光へ!火薬から科学へ、4人の天下人が繋いだ国家戦略【総集編】

 

参考
戦国日本と大航海時代 平山新著 (中公新書)
信長公記 太田牛一著 中川太古訳(KADOKAWA)

 

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