日本の歴史を大きく動かした戦国時代最大のジャイアントキリングといえば、永禄3年(1560年)に起きた「桶狭間の戦い」ですよね。
天才武将・織田信長が、圧倒的な大軍を率いていた駿河の太守・今川義元を奇襲によって打ち破ったあまりにも有名な一戦です。
この戦いのクライマックスといえば、今川軍の本陣が強襲され、総大将である今川義元が討ち取られた瞬間ですが、その後の「義元の首」がどうなったのか、その行方は意外にも知られていません。
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織田信長は、東海の最大最強だった今川義元の首をどう扱ったのか?
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なぜ今川義元の首塚や墓は、愛知や静岡など各地に複数も存在しているのか?
そこには、戦国時代ならではの過酷な外交戦略と、敗者への哀悼が入り混じった複雑な人間ドラマが隠されていました。今回は、歴史の教科書には載らない「今川義元の首のその後」を分かりやすく解説します!
桶狭間の戦い:今川義元の首を討ち取った2人の男たち
大雨と混乱に乗じて、今川本陣へと決死の突撃を敢行した織田軍。彼らの狙いは、もちろん総大将・今川義元の首一つでした。
1番手:信長の側近・服部小平太の猛攻
最初に義元に斬りかかったのは、織田信長の側近である服部小平太(はっとりこへいた)でした。しかし、今川義元は「東海道一の弓取り」と称された一国の大大名。ただ大人しく討たれるような男ではありません。義元の必死の抵抗にあい、小平太は膝を斬られて返り討ちにあってしまいます。
2番手:毛利新介が首をあげるも、凄絶な結末に
続いて襲いかかったのが、同じく側近の毛利新介(もうりしんすけ)でした。新介は負傷した小平太に代わって義元に組み伏せ、ついにその首を討ち取ります。
この際、義元は最期の抵抗として、新介の指を食い切ったという凄絶な逸話が『信長公記』などの史料に記されています。絶対的なカリスマを失ったことで、2万5,000を誇った今川軍は一瞬にして崩壊へと向かいました。
織田信長は今川義元の首をどう扱ったのか?清須城での意外な対応
敵将の首を討ち取った後、最初に行われるのが、本人であるかを確認する「首実検(くびじっけん)」です。合戦後、信長は義元の首をどのように扱ったのでしょうか?
清須城での手厚い供養
信長は本拠地である清須城へ帰還した翌日、義元の首実検を行いました。捕らえていた今川方の同朋衆(主君の身の回りの世話をする僧侶)を呼び出し、義元の首を特定させます。
この時、信長は敗将に対して非常に敬意を払った対応をしています。義元の死を哀れみ、清州城下に「義元塚」を築かせただけでなく、僧侶を集めて千部経を読経させるなど、手厚く供養したのです。この時に築かれた塚は、現在は愛知県清須市の正覚寺(しょうがくじ)に移され、今も大切に守られています。
なぜ信長は宿敵・義元を優遇したのか?
信長が義元を優遇した背景には、冷徹な政治的計算(外交戦略)がありました。
当時、今川家は駿河・遠江・三河を支配する超名門です。当主を討ち取ったとはいえ、当時の織田家には今川領内へすぐに攻め込めるほどの国力はありませんでした。そのため、義元を丁重に弔うことで今川残党による過度な報復感情を和らげ、外交的な優位に立つ狙いがあったと考えられています。
義元の首を奪還せよ!忠臣・岡部元信の執念
清須城で手厚く供養された今川義元の首ですが、実はその後、今川家のもとへと返還されています。ここには、今川家の忠臣である岡部元信(岡部五郎兵衛)の命がけの交渉がありました。
孤立無援の鳴海城守備
当時、岡部元信は尾張の最前線である鳴海城を守備していました。本隊が壊滅し、主君が討たれたという絶望的な状況でも元信は降伏せず、織田軍の攻撃を何度も撃退し続けます。
首の返還を賭けた開城交渉
猛抵抗を続ける元信に対し、信長は城を明け渡す「開城」を要求。これに対し元信は、驚くべき条件を提示しました。
「城を明け渡す代わりに、我が主君・今川義元公の首を返還せよ。さもなくば、全員枕を並べて討ち死にするまで戦う」
元信の主君への忠義と凄まじい執念に感銘を受けた信長は、この条件を快諾。丁重に棺に納めた義元の首を元信に引き渡しました。
こうして義元の首は生前に愛した駿河の地へと戻り、今川家の菩提寺である臨済寺(静岡市)に手厚く葬られることとなったのです。
なぜ複数ある?各地に点在する「今川義元の首塚・胴塚」の謎
公式な記録では、義元の首は駿府(臨済寺)にあるはずですが、実は愛知県や静岡県には「首塚」や「胴塚」と呼ばれる場所が複数存在します。なぜ、これほど多くの墓があるのでしょうか。
| スポット名 | 所在地 | 伝承・概要 |
| 臨済寺(りんざいじ) | 静岡県静岡市 | 歴史事実として最も有力な、義元の首が眠る今川家の菩提寺。徳川家康が人質時代に過ごした寺としても有名。 |
| 東向寺(とうこうじ) | 愛知県西尾市 | 岡部元信が首を持ち帰る途中、駿府へ戻る前に一時的に埋葬したとされる首塚。 |
| 大聖寺(だいしょうじ) | 愛知県豊川市 | 首と切り離された義元の「胴体」を運ぶ際、腐敗が進んだため埋葬したとされる胴塚。 |
| 今川塚(いまがわづか) | 愛知県東海市 | 逃げ延びた今川の家臣が建立。敵の目を欺くため「義元」ではなく「義基」と刻まれている。 |
複数の墓が存在する背景には、戦国時代ならではの「2つの現実的な理由」がありました。
理由①:梅雨時期による遺体の腐敗
桶狭間の戦いが起きた旧暦5月19日は、現在の暦に直すと6月中旬の梅雨真っ只中です。蒸し暑い雨の中、遺体をそのまま駿府(静岡)まで長距離運ぶのは、衛生的に不可能でした。
そのため、「首は途中の東向寺に一度埋葬した」「胴体は移動限界がきて豊川の大聖寺に埋葬した」という説が、現実的な応急処置として今に伝わっているのです。
理由②:家臣たちの忠義とカモフラージュ(偽装)
敗将となった今川の家臣たちは、織田軍の追っ手から逃れる必要がありました。また、主君の墓が暴かれるのを防ぐため、あえて各地に偽の墓(供養塔)を作ったり、名前に別の漢字(義基など)を使ったりして隠蔽した形跡が残っています。
各地に残る首塚は、主君を命がけで守ろうとした家臣たちの執念の証でもあるのです。
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まとめ:首の行方が物語る「名将・今川義元」の真の実力
桶狭間の戦いにおいて、織田信長の引き立て役として「公家かぶれの無能な武将」のように描かれがちだった今川義元。しかし、彼の「首」を巡る戦後の動きを見ると、その人物像がまったく異なるものであることが分かります。
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織田信長が、恐怖の対象であり最大のライバルだった義元を手厚く供養した事実
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岡部元信をはじめとする家臣たちが、命を懸けてその首を奪還しようとした忠義
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各地の領民や家臣が、今もなお首塚・胴塚を大切に守り続けている事実
これらはすべて、今川義元が周囲から深く慕われ、畏敬の念を持たれていた偉大な名将であったことの証明にほかなりません。
歴史の表舞台から消え去った義元の首ですが、その行方を辿ることで、戦国時代のリアルな人間模様が見えてきます。東海地方(愛知・静岡)を訪れた際は、ぜひこれら歴史の痕跡が残る首塚を巡り、当時のロマンに想いを馳せてみてください。
参考:「信長公記」太田牛一著 中川太古訳

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