「織田信長があれだけ強かったのは、信長自身が天才だったから」
そう思っていませんか?しかし歴史を深く紐解くと、信長が天下へと名乗りを上げられた最大の要因は、その父である織田信秀が残した盤石な遺産、信長の雄飛を支える基礎がすでにあったからこそだと分かります。
「尾張の虎」と恐れられ、北の斎藤道三、東の今川義元、さらには西の北畠氏ら全方位の傑物たちと熾烈な死闘を繰り広げた男。今回は、信長の前半生がより一層深く見えてくる織田信秀の壮絶な生涯と、彼が愛息に遺した「究極の布石」を徹底解説します。
織田信秀の生涯(年表)と信長の年齢
まずは、信秀が激動の乱世をいかに駆け抜けたのか、嫡男・信長の年齢と照らし合わせて振り返ります。
織田信秀の誕生
1511年 (信長:誕生前)
尾張の守護代に仕える「三奉行」の一家、織田弾正忠家に生まれる。家格としては低く、ここから自らの実力でのし上がることとなる。
那古野城の奪取と信長の誕生
1534年 (信秀24歳、信長0歳)
今川氏の領地であった那古野城(のちの名古屋城近郊)を謀略によって奪い取り、本拠を移す。この年、嫡男・信長が誕生する。
津島・熱田の商業拠点を完全支配
1530年代 (信秀20代、信長:幼少期)
尾張の巨大な港湾都市である津島と熱田を配下に収め、絶大な流通権益(潤沢な金銭収入)を手に入れる。
朝廷への巨額寄進により家格を高める
1540年〜1543年 (信秀30~33歳、信長:6〜9歳)
天皇の内裏修理費として四千貫、伊勢神宮へ七百貫という、室町幕府すらなし得ない大金を献上。朝廷より高い官位を賜る。
第一次 小豆坂の戦い(今川との激突)
1542年 (信秀31歳、信長:8歳)
三河(愛知県東部)の覇権を巡り、駿河の大名・今川義元の軍勢と激突。この戦いでは織田方が勝利を収めたとされる。
伊勢(三重)進出、北伊勢を攻め下す
1543年前後 (信秀32歳頃、信長:9歳頃)
津島より伊勢湾を渡り、現在の桑名・四日市方面へ侵攻。数々の国人を平定し、港湾の権益をさらに拡大する。
加納口の戦い(斎藤道三に大敗)
1547年 (信秀37歳、信長:13歳)
北の宿敵・斎藤道三の居城(稲葉山城)へ攻め込むも、道三の巧妙な奇襲に遭い、数千の将兵を失う大敗を喫する。
竹千代(のちの徳川家康)を捕らわる(竹千代6歳)
1547年頃 (信秀37歳頃、信長:13歳)
今川方へ人質として送られる途上であった松平氏の嫡男・竹千代を奪取。熱田に留め置き、今川に対する強力な外交の切り札とする。
今川・北畠との二正面作戦で苦境へ
1548年〜1549年 (信秀38~39歳、信長:14〜15歳)
今川の軍師・太原雪斎に敗れ安祥城が陥落。竹千代と、捕虜となった長子・信広との人質交換を余儀なくされる。同時期、南伊勢の雄・北畠氏とも激突し、国境は混迷を極める。
斎藤道三と同盟(信長と濃姫の婚礼)
1549年 (信秀39歳、信長:15歳)
四面楚歌の窮地を打開するため、宿敵・斎藤道三と和睦。信長と、道三の娘・濃姫の祝言が挙行される。
織田信秀、病により没す
1552年 (信秀42歳、信長:17歳)
流行病により、尾張末森城にて身罷る(享年42)。家督は「大うつけ」と称された17歳の信長へと引き継がれる。
信秀・道三・義元「三者の財政」比較|信秀は潤沢な資金力を誇る新興の実力者だった!
戦国時代といえば「米の収穫量(石高)が大きい者が強い」と思われがちですが、信秀の台頭は異質でした。当時の宿敵ふたりと、資金の生み出し方を比較してみましょう。
| 武将 | 財政基盤(資金の生み出し方) | 財力の特質 |
| 織田信秀
(尾張南半国) |
港湾都市の関銭・流通権益
(津島・熱田、さらに桑名も掌握) |
領地自体は最小なれど、手元の「金銭」は他を圧倒。叩き上げの新興実力者。 |
| 斎藤道三
(美濃一国) |
豊かな農耕地+特産品の専売
(美濃の油、楽市の先鞭) |
土地が極めて肥沃。商人の見識をもって流通を大革新した実業家。 |
| 今川義元
(東海道三カ国) |
広大な領有地+安倍金山
(産金と最先端の検地制度) |
三カ国を束ねる東海道屈指の総資産家。組織全体の総合力は別格。 |
信秀は、米の生産量においては今川や斎藤に及びません。しかし、物流の要衝であった津島・熱田、さらには伊勢侵攻によって手に入れた桑名などの港を抑えていたため、「絶え間なく金銭が転がり込んでくる」圧巻の資金繰りを実現していました。
朝廷や伊勢神宮へ巨額の寄進をなし得たのも、この資金力あってのことです。そしてこの「金銭重視」の富国策こそが、のちに信長が鉄砲を大量に調達し、常備軍を編制する大きな原動力となったのです。
なぜ信秀は「今川」ではなく「道三」と同盟を結んだのか?
ここで大きな疑問が生じます。
「いっそ最高峰の家格と国力を誇る今川義元と手を組み、北の道三を挟み撃ちにする方が格段に合理的なのではないか?」
しかし、信秀にとって今川義元との同盟は「毛頭不可能な選択」でした。理由は二つ存在します。
三河という「絶対に譲れぬ領土」の衝突
信秀の尾張と、義元の駿遠(静岡)の間には「三河(愛知県東部)」が横たわっていました。東へ勢力を伸ばしたい信秀と、西進を狙う義元。つまり、両者は同じ獲物を虎視眈々と狙う野心家同士であり、利害が真っ向からぶつかり合っていたため、交誼を結ぶ余地など微塵もなかったのです。
格式高き名門と、尾張の新興勢力との「家格の差」
今川義元は、足利将軍家の血を引く超名門。対する織田信秀は、守護代のそのまた家臣(三奉行)という低い身分から実力で這い上がってきた男。古い権威と格式を重んじる義元から見れば、信秀は「分をわきまえぬ成金」に過ぎず、対等な盟友として見なすはずもありませんでした。
選択肢は「道三」しか残されてい
そこで見出されたのが、美濃の斎藤道三でした。
道三もまた、主家を追い落として国を奪い取った「下剋上の徒」。周囲の名門大名から白眼視されていた者同士、「新興の徒として、生き残りのために手を取り合おう」と利害が完全に合致したのです。
伊勢(三重)の強敵も参戦!「全方位の敵」に囲まれた信秀の限界
信秀が対峙していたのは、今川や道三だけに留まりません。西側の伊勢国(三重県)へも水軍をもって侵攻し、桑名や四日市の港湾権益を力づくで奪取していました(北伊勢の平定)。
しかしここへ、伊勢屈指の壁が立ちはだかります。中・南伊勢を支配する名門・北畠(きたばたけ)氏です。
北畠氏は織田家の西進を阻むべく、熾烈な国境紛争を展開。この戦いにおいて信秀は実弟(織田信康)を失うなど、深手をおうことになります。
北には、下剋上を成し遂げた戦術の天才「斎藤道三」
東には、圧倒的な国力を誇る「今川義元」
西には、伊勢の名門「北畠氏」
まさに「四方を激友と強敵に囲まれる」という絶体絶命の窮地。このまま消耗戦を続ければ、織田家はいずれ瓦解する――。この極限状態のなかで、信秀が放った起死回生の一手こそが、「信長と濃姫の婚礼(美濃同盟)」だったのです。
「背後の美濃を抑えて安全を確保し、すべての兵力を東の今川へ集中させる」
この冷徹な政治的妥協により、織田家は滅亡の縁から脱し、東より押し寄せる今川義元の脅威に対して全力を傾けて防波堤を築くことが可能となりました。
桶狭間の大逆転劇を陰で支えた、父・信秀と道三の同盟
歴史の大きな転換点となった「桶狭間の戦い(1560年)」。信長が少数の兵を率い、大軍を誇る今川義元を討ち取った逆転劇です。(最近の研究では新説もでてきています)
しかし、この勝利の舞台装置を完璧に組み上げたのは、他ならぬ父・信秀の外交手腕でした。
仮に、信秀が斎藤道三と同盟を交わしていなかったとすれば、どうなっていたでしょうか。
信長が今川義元を迎え撃つべく桶狭間へ出陣したまさにその瞬間、北の美濃から斎藤軍が、あるいは西の伊勢から北畠軍が、手薄となった本拠(清洲城)へ襲いかかり、その時点で織田家の歴史は潰えていたはずです。
それだけに留まりません。この同盟があったからこそ、道三は信長の底知れぬ器量を見抜き、のちに「美濃を信長に譲る」という譲状まで認めました。道三が実子(義龍)に討たれた後も、美濃同盟の遺産は信長の背後を護り続け、やがて美濃攻略を果たす正当な大義名分となったのです。
信長が天下へと飛翔する最大の契機となった桶狭間の勝利。
父・信秀が命がけで北の脅威を「盤石な同盟国」へと変え、見事なお膳立てを遺してくれたからこそ、信長は背後を一切憂うことなく、今川義元ひとりに全神経を注いで起死回生の一撃を打ち込むことができたのです。
桶狭間の大逆転劇を陰で支えたのは、紛れもなく、父・信秀と斎藤道三が交わした固い同盟でした。
信長が天下人に名乗りを上げる基礎は、信長自身の才能もあったのでしょうが、父・信秀から引きついだ経済的基盤と、父が準備してくれた同盟による安全保障が背景にあったといえるでしょう。
【その後の信長】
父・信秀の没後、信長は弟の2度の謀反に遭いながらも、尾張統一を目指します。信長はどのようにピンチを切り抜けたのか?桶狭間の戦い以前の信長を描いています。
→ 【織田信長の弟】謀反を二度も起こした織田信勝(信行)の悲劇と「名前の謎」を徹底解説
信長は妹・お市の方の悲劇と天下統一へつながる不思議な縁を解説しています。お市の方の成長物語
→ お市の方は柴田勝家となぜ結婚し自害した?「清洲同盟」に始まる因縁と小豆の袋の真偽

コメント